フランスを居にして以来30年間にわたり、田原桂一の作品制作において核を成すのは光である。
日本の柔らかく包み込むような光に対して、フランスの地で出会った刺すような鋭い光、
その異質性の体験を契機に、彼は光そのものを捉えるために、光の物質化を探究し続ける。
初期の写真シリーズ「窓」、「都市」において、既に光が物質としての姿を現す。
視線は対象に焦点を合わせているのではなく、空間と光の中を浮遊する。
光を視ることで視線は解体される。対象物を介して光を捉えるのではなく、光の形態そのものを探索しているのである。続くシリーズ「エクラ」においては、大判の紙焼きを2枚の透明なガラスに挟み展示することで、作品そのものが再び光と遭遇し、視線の浮遊は一層強く印象づけられている。
さらに彼の光への探究は、“白い光”と“黒い光”の狭間の揺れ動きの中に座標を据えることで深化する。白い光は感覚であり、オブジェを照らし形づくり、感性や感情を喚起する。
黒い光は、内なる光であり、蓄積された経験や知識などを通して想像やクリエーションを触発する。
過去の記憶、痕跡からの光、とも謂うべきこの光を求めて、彼は石やアルミニウムなどの素材に写真を焼き付ける。透明性の試みを経て、物質を通して光の記憶を探る試みが繰り返される。
写真という分野を超え、田原桂一は都市空間での光の設置プロジェクトも多様に実現してきた。
これらの“光の彫刻”は光の“物質化”の探究の延長線にあるといってよい。光に物質性をもたらすために彼は光を解き放つが、あくまでも光は対象に合体し、その緊張関係から新たな意味が顕在化し、場の潜在性が開かれる。代表作品である「光の庭」(北海道恵庭)は、六ヶ月間1メートルもの雪に覆われる公共空間に設置されている。光は音楽につれて変容し、詩的次元の空間を表出する。光により、都市、
そして世界は、変貌を介して、多様な意味合いを纏い、それ故に深く人間的な姿を現わすことになる。
同じ発想をもとに、2000年には、公共空間のためのパリ市依頼プロジェクトとして制作された「Echos de lumière」がサンマルタン運河地下道内に常設された。
この他にも、彼は屋外環境の中に設置される光の彫刻を数多く制作しているが、ガラス、石、メタルに焼き付けた写真を組み入れた作品も多い。ベイシェルヴィル城のパーク(ボルドー)、シャトー・アンジェの濠、カオール大聖堂回廊、モントロー公園温室、ショーモン・シュール・ロワール国際庭園フェスティヴァルなどに招待出品。
2001年には、パリ写真美術館の屋外空間に「庭園Niwa」が常設された。
2003年、ヨーロッパ文化首都イベント「リール2004」(フランス、リル市)の一環として制作した「Portail de lumière」、そして2004 年、写真全シリーズを展示した『田原桂一 光の彫刻』展が東京都庭園美術館にて開催された、写真だけでなく美術館内や庭を使い「光」を使ったインスタレーションも行なった。その時制作された、『光の門』は青山通りにある株式会社ワールドの庭に常設されている。2006 年にはパリ第七大学新校舎の外壁デザイン『Physique』、マルセイユのブッシュ‐ド‐ローヌ県立図書館の外壁プラン光の彫刻『Ode a la Mediterranee』など、建築とのコラボレーションで光の表現領域を拡大。その他にも都市空間での光の設置プロジェクトを数多く制作している。2008 年、銀座の中央通りに完成したGINZA888 ビルの基本設計および総合プロデュース。イオ・ミン・ペイが設計したカタール王国、国立イスラム美術館の開館記念
事業にてアートディレクション、写真集を出版。
2014 年9 月にはパリにあるヨーロッパ写真美術館にてフランスでは過去最大規模の展覧会、2016年何必館・京都現代美術館にて個展、2017年3月にはプラハ ナショナルギャラリーにて、36年のあいだ、
未発表であったダンサー田中泯とのフォトシェッション作品「photosynthesis1978-1980」を展示、
今まさに原点回帰として蘇る。
また、ブランディングコンサルタントとしてダンヒル、カルティエ、ドン・ペリニヨンなど
数多くの広告、企画を手掛ける。
日本だけにとどまらず世界を舞台に写真、映像、ブランディング、建築と多方面に活動した。
2017年6月6日 肺がんのため65歳で他界